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曽田 廣士 曽田 龍士 曽田 葉月
曽田 廣士
山口の地で創業し30年。自然と共に生きる住まいを提案し、自然環境への還元も見据え、健康で安全な住まいを提供し続けている。

どこへ行っても自然のありよう、そこに生えている木の特性、建材としての使いやすさ、その心地よさの正体を探ってしまう。

木を建材に使うと「燃える」「腐る」と敬遠されることもあるけれど、それは誤解だ。
表面が炭になれば火は中まで通らないし、腐らない工夫を施せば、木ほど長持ちし、修繕が容易な材料はない。先人たちが築いた合掌造りのような、力を逃がす知恵もある。
また家に使う木は、その地方で育った木のほうが気候に合っている。暑いところで育った木を寒いところの家に使うと、変形してしまうからだ。

ただ、今、山口の山を見て思うのは、手入れが行き届かないことへのもどかしさだ。かつては建築に使うスギやヒノキ、そして山口特有のアカマツが誇り高く育っていた。しかし今は、伐採した後に植林する人がいない。利益にならず、相続する人もいない。木を植えなければ、山は保水力を失い、大雨が降れば川は氾濫し、海に栄養も届かなくなる。
地元の木を積極的に使うのは、地域への貢献という意味も大きい。それは、ここで商売をさせてもらう者としての義務だと思っている。
曽田 龍士
山口で生まれ育ち、住宅設計を経験。「優柔決断」を信条に、暮らしに寄り添う心地よい空間を探し続けている。
幼い頃から、龍士は父・廣士の現場へたびたび連れて行かれた。山口の風習である「餅まき」にもよく顔を出した。父が話し込んでいる間、地面に落ちている五円玉を地道に拾い集め、駄菓子屋へ走った。物心ついた時から、父という人間が多くの知人に囲まれ、直接人と向き合って仕事をする姿を、特等席で眺めていた。

龍士は大学時代、建築のコンペで「大きな自然と呼応する人間を作れば、おのずと建築も自然と呼応する」というロジックを提唱した。
工事で出る残土を捨てず、敷地の四隅に積み上げて「あぜ道」の丘を作る。住宅が増えるたびにあぜ道が繋がり、やがて小学校まで続く安全なインフラになる、という構想だ。

この時すでに、龍士の関心は建物単体ではなく、風景や人の営みが繋がっていく「境界」に向けられていた。

卒業してからは、大手ハウスメーカーに就職した。最初は大阪、そして広島へ転勤し、七年半を過ごした。街は刺激に満ちて居心地が良かったけれど、ウッドショックやコロナ禍を経て、山口にいる廣士からの「どうするんだ」という問いかけが、次第に重みを増していった。 大手にいれば安泰だった。けれどハウスメーカーの枠組みを超えて、もっと自由に建築と向き合いたい。そんな欲求が龍士の中で静かに膨らみ、山口に戻ることになった。

戻って気づいたのは、山口の空の広さと、山が見えることで保たれる自分の中の方角だった。
音楽の聴き方も変わった。都会では騒音を消すためのものだったけれど、ここでは流れる風景と音楽が、セットになって記憶に刻まれる。
そこにある光や風、風景に心が動く瞬間があれば、人はその場所を愛することができる。
曽田 葉月
自然豊かな香川で培った美意識と女性ならではの視点を強みに、細やかな気配りで五感に響く日々の心地よさを設計している。
龍士の妻である葉月は、当たり前にそれを感じていた。
知識で解釈するよりも先に、心が反応する。それを意識したきっかけは、幼い頃。親に連れていってもらった美術館で目にした巨匠たちの作品が、葉月の感性を大きく揺さぶった。特にダリが描く「柔らかい時計」の強烈なイメージは、子ども心にも深く刻まれ、それを真似て描いたところ、大人たちからは「なぜこんな発想ができるのか」と驚かれた。

ただ彼女にとって、それは理屈ではなかった。ただ見たもの、感じたことをそのまま紙に写し取っただけなのだ。
大人になってからも、現代アートのようなストーリーやコンセプトを重視した作品より、美しさを追求した古典美術のほうが好きだった。直島の地中美術館に飾ってあったモネの作品は、やっぱりものすごく感動した。

彼女の中で、「好き」か「嫌い」か。その判断に迷いはなかった。その直感の鋭さが、仕事の、そして生き方の根幹にあるのだと思う。
葉月の世界は、昔からずっと、そうした感覚的な手触りで構成されている。

廣士、龍士、葉月。そんな3人の感性は「仄仄」のプロジェクトにすべからく活かされることになる。